NHK Eテレの日曜美術館・神田日勝を見て衝撃・・・同郷の画家にこんな人がいたとは・・・。
神田 日勝(かんだ にっしょう、1937年12月8日 – 1970年8月25日)
日本の画家。
東京市板橋区練馬(現東京都練馬区練馬)生まれ。
8歳のときに戦火を逃れる為に一家で北海道鹿追町へ疎開し、そのまま定住。
農業をするかたわら独学で油絵をはじめ、その後、平原社美術協会展(平原社展)や全道美術協会展(全道展)で活躍。
北海道を代表する画家として評価を得つつも、32歳の若さでこの世を去った。
ベニヤ板にペインティングナイフやコテで描く力強いタッチの具象画で有名。
農家でもあったことから、農耕馬や牛などをモチーフにした画も多い。
「馬(絶筆)」
祭壇に掲げられた聖画のようにおごそかに展示された「馬」。終日ライトに照らされ続けたため、1995年、修復のために京都の専門業者へ。その間に阪神大震災が発生するが、幸運にも無事戻ってくることになった。修復は、描かれた表面だけ残してベニヤを薄くはがし、裏を補強する方法。しかしベニヤをつなぐため縦横に打たれた小さなクギが「このままではサビて絵に影響が出る」と判断され、結局抜いてしまうことに。では今、表面に見えているクギは? 実はこれ、修復士によって描かれているのである。
「馬」と並び、もっとも有名な日勝作品の一つ「室内風景」。シリアスな作品だが、随所にユニークな遊びも。当時有名な米の広告のコピー「みんなおかわり」が「みんなおわかり」になっていたり、本当は石原裕次郎だった広告が女性に変わっていたり、神田3兄妹のことを書いたらしき記事が載っていたりする。機会があったら、すみずみ見てみよう。
(1970年/北海道立近代美術館蔵)
1937年(昭和12年)東京の練馬に生まれる。1945年(昭和20年)、東京大空襲に遭遇。戦火を逃れる為、一家で北海道鹿追町へ疎開する。
1950年(昭和25年)に鹿追中学校に入学し、美術部を創設する。
1952年(昭和27年)頃には兄・一明の影響を受け、油絵を始めた。
1953年(昭和28年)に中学を卒業、美術が特に優れていたとして賞を受ける。
そして東京芸術大学に進んだ兄に代わり、農業を継ぐ。
1956年(昭和31年)、平原社展に『痩馬』を公募展初出品、朝日奨励賞を受賞する。
その後も平原社展、全道展を中心に作品を出品、1960年(昭和35年)には『家』が全道展で初入選を果たす。
これ以降は入選を重ね、評価を固めていく。
1962年(昭和37年)に結婚。64年には長男、68年には長女が誕生する。
1970年(昭和45年)、全道展に代表作『室内風景』を出品。
しかし6月下旬に風邪をこじらせ、8月に体の不調で入院。
その後次第に病状が悪化する。
そして8月25日、腎盂炎による敗血症で死去。32歳の若さだった。